2016.10.17
そもそも「樹木葬」は、どのような経緯で始まったのでしょうか?
樹木葬墓地を考案したのは、岩手県一関市の臨済宗大慈山祥雲寺の千坂げん(山へんに彦)峰・前住職です。千坂さんは長年地域の歴史や自然を守る市民活動を続けてきました。そして、樹木葬を思い立ったきっかけは、散骨だったといいます。
葬送の自由を進める会が散骨を実施し注目を集めた1991年、宗教関係者がなんの反応も示さなかったことが彼には驚きでした。これをお寺への問題提起と受け止め、彼なりに考えた答えが樹木葬だったのです。
木を切って山を崩す墓地開発は自然破壊にほかならず、むしろ墓地を中心に人が集える昔ながらの里山を復元したいという想いが千坂さんにはありました。
ただ、その実現までの道のりは大変だったようです。用地取得や地元への説明ではもちろん、初めての形態の墓地だけに、行政の理解を得て法的に許可が降りるまでは困難の連続。しかし、全国初の樹木葬墓地として1999年11月1日に開設されて以来、全国から注目を集めるようになったのです。
この樹木葬墓地は、1人あたりの区画は半径1メートルで、遺骨をそのまま土に埋め、そのうえにヤマツツジ、エゾアジサイなど、風土にあった10種類くらいの低木から、遺族が選んで植えます。小さな名札を建てるだけで囲いなどはありません。墓参りは花束だけにし、線香や供物は山火事や自然が荒れるのを避けるために使わないルールとなっています。
なお、この樹木葬墓地は、千坂さんの次男が住職を勤める長倉山知勝院が運営しています。
その後、樹木葬墓地は地方の寺院墓地を中心に千葉県、山口県、群馬県などにも広がりました。2005年には、NPO法人エンディングセンターが東京都町田市の霊園である永遠の里・いずみメモリアルのなかに「桜葬墓地」を開設。おそらく、それまでの「地方・里山型」に対して、初めての「都市・公園型」の樹木葬墓地だったのではないかと思われます。
桜の木は、日本人にとっては神様の宿る木であり、特別な想いを持つ人が多い木といえます。樹木葬が始まった当初から、桜の木の下で眠りたいという要望は多かったものの、桜は枝や根が広がるため、限られた場所では遺骨ごとに植樹するには無理があり、実現していませんでした。
しかし、すでに樹木葬を実施していた千葉県天徳寺の住職が「1本の桜の木の下で、複数の遺骨を埋葬する形態をとれば解決する」と発案。その後、エンディングセンターともネットワークをつくり、「桜葬」も全国的に広がりだしたようです。
樹木葬墓地は当初地方を中心に増えたものの、近年は首都圏の霊園に併設する方式などで公園型が増えつつあります。
11年には、樹木医によるボランティア団体として全国樹木葬推進協議会も誕生。そのホームページによると、北海道2、東北1、関東23(うち東京都7、千葉県7)、中部3、近畿11(うち大阪4、京都4)、中国3、四国1、九州4と、すでに全国で計48カ所に樹木葬墓地が開設されています。
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うえの・くにみつ 1956年生まれ。大学を卒業後、電機メーカー勤務などを経て、88年にイオ株式会社を設立、石のギャラリーを中心とした業務を展開する。東京都内を中心に大規模墓地や納骨堂の開発、寺院の活性化のプログラム(寺報発行サポート、墓地管理業務)などの事業に携わっている。