2018.06.26
お墓やご供養に対する様々な不安や悩みを受け止めたい。永代供養墓「沙羅双樹の杜」は、そんな思いから平成27年に圓満寺(横浜市西区)によって開設されました。
「墓を継ぐ者がいない」「子どもに負担をかけたくない」「先々の供養に不安がある」といった最近多くの人が抱えている悩みを含め、どのような方でも安心してお求めになれます。
横浜駅から相鉄本線の各駅停車に乗り3分。横浜駅から2駅目の「西横浜」駅から徒歩10分程度の場所に位置する「沙羅双樹の杜」。駅から「沙羅双樹の杜」のある圓満寺までの道のりは静かな住宅地を抜けて行きます。途中小さな2つの公園の横を通り過ぎ緩やかな坂道を歩いていった先に見えてくるのが圓満寺の門です。
沙羅双樹の杜は圓満寺の墓所地にあります。
ここ圓満寺は寺号を阿富貴山安禅院と称し、天台宗延暦寺末、本山別格の由緒ある寺院です。
石段を登ると鮮やかな朱色が美しい本堂が目の前に広がります。本堂の左手には寺務所などの設備を整えた書院入口があります。書院内は完全バリアフリーでエレベーター、車椅子の方用トイレも完備されています。
駐車場は、墓所近くと書院裏手の2ヶ所15台分。書院側の駐車場から書院まではスロープでつながっており車から降りるとそのまま書院まで階段なしで入れるつくりは車椅子利用でも安心です。
「沙羅双樹の杜」は、「沙羅」・「双樹(特別区画)」・「双樹(合祀)」・「書院地下納骨堂」4つのタイプから納骨のスタイルを選べるのが魅力です。一番の特徴は、4つの納骨スタイルの中の一つ「沙羅」。区画毎にお求めになることができ、一区画80万円から。骨壺で2体、骨袋(お骨を収蔵する為の専用の袋)で4体まで納めることが可能です。
「沙羅」では、一般のお墓のように個別にお線香やお花を手向けることもできます。ご夫婦や家族で一つのお墓に入りたいとお考えの方にはピッタリの墓所です。最後のご納骨から17年間を骨壺で安置し、その後、合祀の区画に移し永代にわたって圓満寺がご供養していくので、後継がいない方でも安心です。
「双樹(特別区画)」は、納骨堂の中に遺骨を収めます。納骨堂の中に個別区画があり、「沙羅」と同様に1区画に収めることが出来るご遺骨は骨壺で2体、骨袋で4体です。また、こちらもご納骨後17年を目処に合祀され圓満寺が永代に渡りご供養します。双樹へのお参りは、納骨堂の正面で「沙羅双樹」の文字が彫刻された石碑の前で手を合わせます。お線香を手向ける香炉も設置されているので持参した好きな香りのお線香もあげられます。
沙羅(A区画)90万円 (B区画)80万円
双樹(特別区画) 60万円
双樹(合祀/1柱)30万円
書院地下納骨堂(1柱)40万円 ※1柱とは1名のことです。
沙羅双樹の杜では、圓満寺僧侶の朝夕の勤行による読経で供養が行われます。また、春秋のお彼岸とお盆には特別法要、12月には沙羅双樹に納骨されている方のための合同法要が営まれます。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の 理をあらわす」(平家物語)
こちらの永代供養墓の名称にある沙羅双樹と聞くと冒頭の平家物語の一節が頭に浮かぶ方も多いのでは? 沙羅双樹は、仏教において菩提樹と並び聖木とされています。お釈迦様が悟りを開いたのが菩提樹の下、そして入滅されたのがインド、クシナガラの地の沙羅の樹の下と言われています。
故事では、激しい腹痛をおこしたお釈迦様は沙羅の木の下で頭を北に横たえられ、最後の説法をされ涅槃に入ったそうです。お釈迦様が涅槃に向かうその時、周囲の沙羅の木は満開の花をつけ入滅とともに枯れはてその花を白く変えたのだとか。沙羅の木については、2本であったり、四辺に4双8本と書かれていたり伝本によって木の本数は違うようです。
お寺に聞いてみました。
Q.沙羅双樹の杜は天台宗のお寺の永代供養墓ですが、申し込みの際に檀家になる必要はありますか?
「いいえ、必ずしも檀家になる必要はありません。強制的な寄付などもありませんので、ご安心ください。」
Q.生前予約はできますか?また、その際にいざという時葬儀をお願いすることもできるのでしょうか?
「はい。生前予約、葬儀、またその後の回忌法要などもお受けできます。」
Q.すでにある遺骨を収めたいのですが、宗派が違います。戒名を付け直さないといけませんか?
「いいえ。沙羅双樹の杜では、どの宗派の方でもご納骨が可能です。ただ、圓満寺で行う法要などは、天台宗の儀式で行います。」
お寺は敷居が高くお付き合いも難しいと考えていませんか?本来、お寺とはその地域社会の中心的な存在でした。迷った時の相談相手となり、悩んだ時の聞き役となる。また、皆が集まり交流の場でもありました。お寺は地域のコミュニティーセンターのような役割を担ってきたのではないでしょうか。最近では、お寺で各種イベントを開催するなどお檀家に限らず、多くの人に門を開いているところも多いようです。
圓満寺でも、地域の子供たちをはじめ多くの人で賑わう節分会や定期的に行う写経の会など「開かれたお寺」としての活動も行っているそうです。
「沙羅双樹の杜に興味をもたれた方で『こんな時はどうしたら?』『こんなふうには出来ないか?』と思うことがあったら気軽に問い合わせて下さい、お寺だからこそ其々のニーズに合わせて柔軟に対応できることもありますので」とお寺では話しています。
今回、このお墓レポートでおじゃました際に案内をしてくださった圓満寺副執事の西野さんをはじめ僧侶の皆さんがとても親切に対応してくださり、何でも気兼ねなく質問できる雰囲気も敷居は高くない!そこも圓満寺「沙羅双樹の杜」の魅力の一つでした。
沙羅双樹の杜の経営主体となっている圓満寺は、安土桃山時代の1585(天正13)年に「大教院」として開かれました。その後、元禄時代に安禅院と寺号を変え、比叡山東塔北谷で法脈を守り続けていましたが、明治37年に起きた火災により焼失しました。
大正12年、関東大震災の物故者供養の御堂が、ここ横浜市西区久保町に建立されましたが、まもなく明治37年に火災により焼失した安禅院の名籍を移すことが企画され、昭和3年に名籍を移転し現在に至ります。
圓満寺の本堂には、本尊阿弥陀如来を中心に左に観音菩薩、右に勢至菩薩の両脇侍を配する弥陀三尊と伝教大師、天台大師が祀られています。弥陀三尊の両脇侍は、腰を少し浮かしやや前のめりの形をした大和座りと呼ばれる珍しい形のもの。また、両余間に掛けられている畳十帖ほどの大きさの水墨画は向って右側に中国の天台山、左側に比叡山が描かれていて広い本堂でもその存在感に圧倒されます。
(植田愛子)
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